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【宮崎名店探訪】北のススキノ、南のニシタチ~1軒目「バー 赤煉瓦」

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ぎゅっと力の入った心を解きほぐしてくれるような、あたたかな空間と時間が広がる、宮崎一の歓楽街「ニシタチ」。この連載では、全国でも類を見ないスナック街としても知られるここニシタチをじっくり味わうことができる名店をめぐる。

■1軒目「バー 赤煉瓦」



「草分け」という言葉がある。青々と緑生い茂る土地を切り開き、そこに新しい暮らしやカルチャーを生み出した存在のことを、私たちはそう呼ぶ。今では酒好きが心を掴まれて(たまには美酒に足をとられて)離れられないような素晴らしい店がひしめくニシタチだが、この地一帯も古くはひっそりとした場所だったらしい。

そんなニシタチの草分けとして知られる名店こそ、この連載の幕開きとなる店だ。1956(昭和31)年7月14日、バー「赤煉瓦(れんが)」の歴史は刻まれ始めた。

■今では希少な「トリスバー」が、ニシタチの草分けだった



取材に伺ったのは、開店1時間前の18時。日差しや雨を受け、年月を経て味わいが増したレンガの壁を横目に古びたドアを開くと、マスターの松山春喜さんが待ってくれていた。御年68歳。カウンターの一番奥の席で、サントリーのビールをちびりちびりと飲む姿が目に入った。「今日は取材ですからね。ちょっと肩慣らしをと思って」と松山さんは言う。

店の成り立ちなどを松山さんに教えていただく前に、まずここ「赤煉瓦」について、少し記しておきたい。

「赤煉瓦」はサントリーのウイスキーをはじめ、同社のリキュールなどを使ったカクテルを提供する「トリスバー」だ。トリスバーとは、サントリー(当時の壽屋)が戦後の洋酒ブームの火付け役となった同社のウイスキー「トリス」をより多くの人に飲んでもらおうと展開しはじめたバーで、最盛期では全国に約1800もの店があったという。以降、業種転換や閉業などでその数は減り続けたが、現存する希少な店舗の一つが「赤煉瓦」というわけだ。

ちなみに2階には系列のバー「洋酒天国」が入る。かつてサントリーが全国のトリスバーに配布していたPR誌と同名のこの店名にピンと来た人は、なかなかのサントリー好きかもしれない。

■南九州で初めて洋酒バーが生まれた、とある「仏滅」の一日



松山さんは、「赤煉瓦」のマスターとしては2代目である。店自体は63年前、松山さんの奥さま・俊子さんの父親である中津清水(きよみ)さんが開業した。

「当時、ここ一帯は住宅地で店も非常に少なかったと聞きます。どこかで飲んでいれば『なんとかさんは今あの店にいるよ』とすぐに分かるほど。こんなに賑やかになった今では信じられないですけどね」(松山さん)

「赤煉瓦」は松山さん曰く、鹿児島含め南九州で初めて誕生した洋酒を扱ったバーだ。これには店がオープンした1956年7月14日が仏滅であったことが関係している。

「実は同じ日、鹿児島にも似たバーがオープンする予定だったんですが、その店は当日が仏滅だからと開店を見送ったのだそうです。しかし先代はそういうことはまったく気にしない、とにかくなんでも一番が好きな人でしたから『そんなの関係なかろう』と先にオープンして、南九州で初の洋酒バーになったと聞いています」(同)



ニシタチは元々旧国鉄の寮の払い下げ地域で、1区画は約13坪。当時サラリーマンの給料が数千円という時代、この1区画が約50万はした。「赤煉瓦」はそんな土地に初めてできたバーなわけだが、先代はなぜこの場所に目をつけたのか。

「昔、この店の隣には映画館があったんです。当時の娯楽はパチンコか映画くらいでしたから、それはそれはここはいい場所だった。先代は実業家気質の人でしたから、ここのほかにも100人ほど入るようなマンモススナックだとか、ディスコだとか、炉端焼きの店なんかもやってたみたいです」(同)

■先代を越えてゆくために、マスターが選んだものは



ここで松山さんご自身のお話も聞いておきたい。宮崎で生まれ育ち、高校までを故郷で過ごした松山さんは、大学進学とともに福岡へ。その後現地のパナソニック系列の会社に就職した後、地元への帰郷を機にバーテンダーの道へ進む。23歳の時のことだった。

 「きっかけは大したことじゃないですけど、店のアルバイト募集の新聞広告で見つけたんです。酒は元々好きでしたから、アルバイトでもバーに入ればただ酒が飲めるんじゃないかっていう下心もありました(笑)」(同)



先代が体を壊し、次の代へ引き継いだのは約30年前。松山さんの言葉を借りると、先代は“インテリ”だったそうだ。そんな先代を自分が越えていくにはどうすればいいか考え、行き着いたのがバーテンダーとしての技術で勝負することだった。

それからは、カウンターに立ちながらひたすらカクテルを作り続ける日々。“先生”はおらず、教本を頼りに一杯一杯と向き合った。そして自身の力試しにと松山さんが挑み続けたのが、メーカーやバーテンダー協会が主催する数々のコンペティションだ。松山さんがカウンターの奥から見せてくれた大会記念冊子には、若かりし頃のその英姿が記されている。



聞いて驚くが、例えばメーカーの大会では全国から応募が2000、3000と集まり、最終選考に選ばれるのはほんの12人という。松山さんは九州・沖縄代表で出場し、東京の帝国ホテルでシェイカーを振ったこともある。

松山さん曰く、もっとも記憶に残っているのは1994年の第3回メルシャンカクテルコンペティションだった。

「当時、アシスタントについてくれたのは、今では東京の銀座の名バーテンダーとしても知られている上田和男さんでした。うれしいことに、結果は3位。資生堂パーラーのチーフでもあった上田さんに、お祝いにシャンパンを開けてもらったのは、今でも忘れられません」(同)

■「赤煉瓦」で味わう、詩的で、美しい一杯のカクテル



そんな松山さんが作る、「赤煉瓦」で飲むべき一杯のひとつが「イエローガーデン」(700円、上画像左)だ。松山さんがコンペティションのために考えた、至高のカクテルである。

これは、玉川大学の農学部が30年以上の年月をかけ、世界で初めて開発した黄色いコスモス「イエローガーデン」に由来する。花が好きだった松山さんは、その可憐な美しさを一杯のグラスで表現した。ラムをベースに、バナナやオレンジ、グレープフルーツなどのリキュールとシェイクする、花の蜜のような優しさの香りと味わいが楽しめる一杯だ。

そしてもう一つのお薦めが、鮮やかなライトグリーンの「ウッドノート」(700円、上画像右)である。英語で書けば「Woodnote」。森の調べという意味を込める。ジンをベースに、使うのはキウイやペパーミントのリキュールだ。一口いただけば木漏れ日の注ぐ朝、しんと静まり返る森の爽やかな空気が、舌の上に広がる。



ところでマスター、どうしてそんなに詩的で、美しいカクテルを考えついてしまえるのだろう?

「コンペの創作部門では、カクテルの味はもちろん、色味、作り方と共にどんな発想でその一杯に至ったのかというストーリーも重要。私も恥ずかしながら、歯の浮くような創作意図と共に、大会に挑んだものです。ほかにもいろいろなカクテルを考えましたが、どれもかけがえのない作品ばかりですよ」(同)

■客、サントリー、そしてニシタチとともに歩む



松山さんがカウンターに立って45年、そして「赤煉瓦」が始まって63年。松山さんのカクテルへの思いを聞けば、こうして長い間、ニシタチで同店が愛されてきた理由も分かる気がする。

最後に、松山さんにバーテンダーという生き方の醍醐味も聞いた。

「こんな狭いカウンターの中を毎日行ったり来たり、もういい加減飽きが来そうですけど、これがなかなか飽きないんです。というのも、毎日ここに立っても絶対に一日としてお客さんがまったく同じ顔ぶれなことはない。新鮮なんです、毎日が」(同)



そして「メーカーさんとの絆なくして、この店はありません」と松山さんはいう。こうして長く続けられるのも「赤煉瓦」という店に息を吹き込んだサントリーという存在があるからなのだ。

店が50周年を迎えた年には、トリスバーを長く続けることへの感謝と共に、同社から記念のウイスキーが到着した。これは30年ものの原酒を主体に、創業年と同年蒸溜の原酒も使った唯一無二のものだ。今になれば200万円はくだらないだろうというこれが2本も届き、1本は50周年のその日に客へ振る舞い、もう1本は今も大切に保管されている。



松山さん曰く、ここニシタチは「人情溢れる場所」だ。

「ニシタチはとても温かい街です。県外からいらっしゃるお客さんも多いですが、私たち店の人間もそうした方々を歓迎して、みなさんで楽しくお酒を飲みたいといつも思っています。うちは海外からのお客さんも歓迎ですので、ぜひいろんな方にニシタチの夜を楽しんでいただきたい。そして、こうして昔ながらの雰囲気の中でお酒を味わえる場所を、これからも守っていきたいです」(同)

「赤煉瓦」のネオンが灯る時、ニシタチの夜ははじまる。そして街角のレンガ造りの店の中では、温かい空気と笑い声、そしてここにしかない一杯が作る優しい空間が広がっているのだ。

■店舗データ
営業時間:月曜~木曜・祝日=19時~翌1時(金・土曜は翌2時まで)
定休日:日曜日(三連休の場合は営業し、月曜日が休み)
電話:0985-26-0355
住所:宮崎県宮崎市橘通西3-6-5

取材・文=田代くるみ@Qurumu、撮影=TORUHITO 黒田勇輝

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